Sun Shower           


      
今のマンションに引っ越して来たばかりの頃、挨拶に行った俺に隣の住人はこう言った。
「君の入居した部屋の前の住人ね、自殺したんだよ。首吊りだったらしいよ」
その日から、俺が寝床に入ると逆さ吊りになった赤い服を着た女が現れるようになった。
女は俺をじっと見つめているような、それでいて何も見ていないような虚ろな瞳で、たまに風もないのにフラフラと揺れていた。
女は毎晩俺に何をするでもなくただただ吊るされていて朝になると消えていた。
一週間程した頃、ちょうどマンションのゴミ捨て場で先日の隣人と会った。

「この前君に言った話、ほら自殺云々ってやつ。あれ嘘だよ。もしかして信じて怖くなったりした?だったら悪かったね」
そう言って悪びれもせず、にこにこ笑う男はとても楽しそうだった。
その日の晩は女は現れなかった。そして今日に至るまで二度と見ることはなかった。
つまりあの女は、俺の頭が勝手にイメージした幻覚みたいなものだった訳だ。当たり前だ。自殺者が男か女かなんて知らないのに。だいたいどうして首吊りしたはずの幽霊が逆さ吊りで現れるのか、まったくもってバカバカしい!
俺は幽霊だとかそういうものを信じていないわけではない。ただ、いてもいなくても、逆さ吊りとか、血みどろとかでなくもう少し自然にいてほしいのだ。

ちなみに今現在、人をからかうことにこの上ない喜びを感じる隣人は俺の良い友人となっている。


病院からの帰り道を心なし重いような気のする腹をさすりながらトボトボと歩いていた。
口をマスクで覆い、時々小さくコンコンと咳き込みながら空を見上げた。空はまるでその色しか知らないかのように青く、ただ青かった。
しかし、そんな晴れた日だというのに天からはぽつ、ぽつと控えめな恵みが与えられている。お天気雨だ。

マスクとガラガラになった声では他人とのコミュニケーションがとりにくい。今日も医者と話しをすることさえ一苦労だったのだ。これが更に悪くなる状況は避けたかった。だがしかし、早足で道を曲がったところで顔色の悪い女性が蹲っているのを見つけてしまった。ほっそりとした女性だったが、腹だけがやけにふくれている。身重だ。
声をかけると、女性は不審そうな顔で俺を見た。もう一度「大丈夫ですか」と言いたかったが、出たのはコンコンという咳きと嗄れた声だけだった。
しかし、女性は一瞬驚いたような表情をしたが返事の代わりに脂汗の流れる青白い顔で、俺に笑いかけた。

少し歩くと病院があるから、と伝えたが女性は傍らの荷物をちらと見て考え込んだ。今日中に届けなければならない物だという。届け先もここから遠くはないらしい。
正直、早く帰って休養をとりたいと思っていた。それに今は人に親切にできる気分ではない。しかし、なんとなくここで家に帰るという選択肢は俺には残されていないような気がしてならない。俺を見つめる女性の視線にも期待がこもっている。
届け先は何処ですか。その荷物俺が代わりに届けましょう。と言うしかなかった。

 女性の話によると、親戚の娘の結婚が決まりそのための贈り物だという。目的の場所である、なかなか立派な純和風な家は外からでもわかるほど騒がしかった。娘の嫁入り準備だろうか。ちょうど外に出ていた年輩の女性に品物を渡し理由を話して、そのまますぐに帰宅したかったのだが、話し好きらしいその女性にこの家の娘の器量がどうの、相手の男がどうの、父親が結婚に反対しただのどうでもいいことを延々聞かされるはめになった。
 適当に相槌を打ちながら、話しを切り上げ帰るタイミングを図っていると、いつのまにか俺の足元に小さな女の子がいた。
俺が気のない返事する合間にコンコンと咳き込むと、その子もコンコンと咳き込むまねをしてクスクスと笑っていた。
よく見ると、先ほどの妊婦とよく似た、つりあがった細い目をしていた。血縁者だろうか。

「お兄ちゃん、ウチのお姉ちゃんのお祝いに来てくれたの?」
違うよ、と言うのは少し気が引けてしまい適当にお茶を濁してしまった。雨が降っているけど、部屋に居なくていいのかな。と尋ねると
「雨が降ってるのは仕方ないんだよ。だってお姉ちゃんがお嫁に行っちゃうんだもの」
そう返された。小さな子ども特有の不思議な発想がなんとなく微笑ましかった。
「ねえ、お兄ちゃん今元気じゃないでしょう。これあげるわ」
悪い所が治る飴よ。そう付け足して女の子は俺に赤い飴玉を差し出した。
のど飴だろうか、小さな優しさが嬉しかった。

 部屋の中から誰かを呼ぶ声がした。どうやら話しに夢中になっていた年輩の女性を呼んでいるらしい。
彼女は、やっと自分ひとりが盛り上がってしまっていたことに気づいたらしく、バツが悪そうな顔をして俺を解放してくれた。

 さて、やっと家に帰れるぞ、と歩き出そうとしたところ先刻の女の子が俺に耳打ちした。
「お兄ちゃん、人間のふりが上手ね。私びっくりしたわ。でもね…」
あんまりコンコンいってるとばれちゃうよ。そう言ったか言わないかといううちに女の子は部屋の中へと消えて行った。確かめる暇さえなかった。

 俺はそのまま、半ば呆然として家路につき、いつの間にか部屋で眠っていた。もらった飴は口に入れたのは覚えているが、いつ舐め終わったのかはわからない。
ただ、目が覚めた後も口の中には甘い味が残っていた。

「おかしいねえ。」
俺の目の前の医者は心底不思議だという顔をして、撮ったばかりのレントゲンと先日撮ったレントゲンとを見比べていた。
「胃にあった腫瘍がなくなっている。」
そう言って、首をかしげながら唸った。
「何か悪いものを食べたりとかしなかったかい?」
医者はからかうように笑うが、俺は笑えなかった。悪いものは食べていないはずだ。
ただ変な、悪いところを治す飴玉をもらったかもしれない。とは言えなかった。せっかく健康体になったというのに精神病棟にぶちこまれたくはなかった。

ただののど飴ではなかったのか。あれは、もしかして良いことをしたお礼、というか、ご褒美のようなものだったのだろうか。いや、深く考えるのは止そう。きっとあの子にたいした考えなどなかったのだ。
 前に歩いたときとは全く違う心持ちで俺は帰路についた。なんとなく空を仰いでみると頬にぽつ、と水滴が落ちた。
空はまるで絵葉書のように晴れ晴れとしている。お天気雨だ。最近はやけに多い。

道の途中で、正装した中年の男とすれ違った。手には、なにやら招待状のようなものを握っている。声は、かけなかった。


マンションに帰り、昼飯をタカってやろうと隣の部屋のチャイムを連打してみるといつもは無駄によく喋るはずの男がやけに静かだった。
口にはマスクをしていた。なんでもどこかの誰かに風邪をうつされたらしい。残念ながら、俺にはなんのことか見当もつかない。
 コンコンと辛そうに咳き込む友人を見て、俺の心に親切心が湧いた。それはもちろんお粥を作ってやろうとか、アイスを買ってきてやろうとかそういうことではない。
「なあ、風邪が辛いなら、そこの総合病院に行ったほうがいいぞ。ほら、今すぐ行ってこいよ」
そういえば、この男は長年リウマチに悩まされていると言っていた。
だったら、なおさら行ったほうが良いかもしれない。
不承不承出て行った友人を、まだ雨が降っていることを確認して見送った。
もちろん、道行く人に親切にするようにしっかりと言っておいた。あいつが帰って来るのがとても楽しみだ。







2年くらい前に課題として提出したものです。あまりの拙さに顔から火が出そうです。
2007.12.14