「それで、新しい家とご家族にはもう慣れたのですか」
少女の目の前の長椅子に座った幽霊紳士は、楽しそうな声色で仮面に隠れていない右の口端を吊り上げて歌うように尋ねた。
「あぁ、そうですか。それは良かった。皆さんああ見えて、と言うと失礼ですが良い人達ですから大丈夫ですよ」
真摯な言葉を紡ぐ口とは裏腹に、その手は先刻から休むことなく作業を続けている。
「あの方達は貴女のことを好いていらっしゃるから貴女を家族に迎えたのですよ」
あ、もう少し上を向いていただけますか。そう付け加えられ少女は素直に天井に顔を向ける。
少女と紳士、二人のいる部屋に窓はなく橙色をしたランプの灯りだけがいくつかぼんやりと灯っているだけだ。
目を凝らして見ると、紳士は片手に持った人形の頭部になにやら描き込んでいるのがわかる。それは、紳士の目の前の座り心地のよさそうな長椅子にちょこんと座る小柄な少女に似せて作られているようだった。そして、薄暗い部屋を見回せば、まるで部屋の調度品であるかのように自然に数多くの人形が並べられている。今現在紳士が作っている、大人の拳三つほどの大きさのものから、親指くらいの可愛らしいもの、今にも動き出しそうに見える精巧なマネキンのようなもの、更には頭部を作られたまま放置されたのか人の頭を模したものが列になり、虚ろな目で空を見つめている。しかし、そんなものが陳列されているというのに、その空間に不自然な空気や違和感はなく人形達はあるべくしてそこにあるかのように存在していた。
少女が見上げる天井には古びた吊り灯りが今にも重力に屈してしまいそうな弱々しい錆びた鎖で吊られている。その鎖が音を立ててちぎれ、落下する吊り灯りと自分の身体が重なる瞬間を夢想して、少女は脇においた鳥籠にそっと触れた。金属のひやりとした温度が小さな身体から熱をほんの少し奪った。
そんな少女の心を知ってか知らずか、紳士の存在する方向から誰かが笑ったかのように空気の揺れる気配が伝わってきた。
「お疲れ様でした。もう楽にしてくださって結構ですよ。」
優雅な動きで筆を置くと、紳士は洋卓に並べられた冷めた紅茶に手を伸ばし口へ運んだ。飲み物を飲むことができたのか、と少女は内心思った。受け皿に戻されたカップの中の液体は確実に減っている。間違いなく口から紅茶を体内に入れたのだ。思わずまじまじと見つめてしまう少女に、紳士は片目を細めてくつくつと笑いながら答えた。
「ちゃんと人間のように振舞えるようにしているんですよ。」
自慢げに話す目の前の相手に何か釈然としないものを感じながらも少女は無理矢理納得することにした。
「どうです、よくできていると思いませんか?」
紳士自身のこと、ではなく、今顔を描きこんだばかりの人形を誇らしげに少女に見せながらいくぶん興奮気味に紳士は声を上げたが、少女としてはどんなに紳士の作った人形に定評があろうと、どんなに精巧に作られていようと、自分に似せて作られたそれに対してあまり快い感情を持つことができなかった。
「おや、お気に召しませんか?」
こんなに可愛らしいんですけどねぇ、と首をかしげて生まれたばかりの人形に話しかけながらもその後に、まあ本物には遠く及びませんけれど、などと加えるあたりに紳士のひととなりが表れている。
薄暗い室内には似つかわしくない華やかな器に並べられたクッキーをひとつほお張り、冷めてしまったが、それなりにおいしい紅茶を啜り一息つくと、脇に置いていた鳥籠を持ち、少女は座り心地の良い長椅子からそっと降りた。
この部屋に時計はないが少女が来てから随分な時間が経っているはずだ。あちらの用件が済んだのなら長居をする理由はない。
「もうお帰りですか?それは残念ですが遅くなるとご家族が心配なさりますし、仕方がないですね。」
そう言い、紳士は軽く片手を上げると指を鳴らした。するとどこかで見たことのあるような気のする、頭にアンテナをつけた妙に厚みのない人間のような形をしたものが少女の前に現れた。
「どうぞ、夜道は危ないですから。」
紳士が言うと同時に厚みのないそれが、少女の目の前にいくつかの光る何かを差し出した。見たことのない何かに面食らう少女を余所に、アンテナをつけたものが少女の持っていた鳥籠の中へそっとそれを入れた。鳥籠の中をやわらかい光がふよふよと動いている。ほたるのように見えなくもないが、それにしては大きすぎる丈であるし、色も青白かったり、橙だったりしている。
少女が鳥籠の中の光と紳士の顔とを交互に見ると、紳士は満面の笑みを浮かべていた。紳士としては、これを夜道の灯りとして使えということなのだろう。そっと鳥籠に手をかざしてみると不思議と温かかった。もし、もし死んだ人間の魂に触れることができたなら、きっとこうなのではないだろうかという考えが一瞬少女の頭に浮かび、すぐに消えた。
紳士からの厚意をありがたく受け取り、少女は血の通わぬ主の住む無機質な館を後にした。
外は随分暗くなっており、夜空には丸く大きな月が輝いていた。ただし館の外の鬱蒼とした森のおかげで月光は少女のところまでは届いていなかったが、紳士の心遣いのおかげで足元を危ぶむことはなかった。
丈の高い樹が多いこの森に届かないのは月の光だけではないらしく、陽の光もあまり届いていないだろう地面には苔も茂り、湿った土が少女の白い素足を汚している。
冷たい土の感触を足の裏で感じながら、少女は館の中では全く考えもしなかったことを考えていた。ここは何処で、自分はどのようにしてここまで来たのかと。
あの幽霊紳士に会うときはいつもこうだ。いつの間にか自分には紳士と会うという予定が立っていて、気がつくと予定通りいつの間にか紳士の館の一室にいる。そして、どれだけ記憶を辿っても、自分が今まで招かれていた一室と外から見た館の外観以外の記憶がない。玄関、廊下、上ったような、下りたような気のする階段、全てが記憶に曖昧なのだ。しかし、なぜか館を後にする時だけは自分の足で森を歩いている。それでいて、今まで森を抜けた記憶はない。木々の間を縫って彷徨うばかりである。
どうやってここから抜け出そうかと周囲に目を遣ると、少女の目に見知った人影が映った。日常生活では滅多に見かけることのない黒を基調としたドレス、顔よりも一回りも二回りも大きな帽子、見るからにゴシックな服装は深い森を歩くにはひどく非機能的に見える。
動く腐乱死体。彼女は少女とは逆の方向、幽霊紳士の館へと歩いていた。きっと、腐敗を続けるその身体に防腐処理を施してもらうのだろう。稀に少女と会話をする機会をもつ彼女は、日々腐敗していく我が身を愁いていた。
そういえば、と少女は思う。ここで姿を見るのは生きた人間ではない者達ばかりだ。例えば、カタカタと動く雨人形、ぎこちない動きの絡操男爵、うっすらと見え隠れする翅の生えた妖精のような女性、今まで対面していた紳士だって、人間ではない。少なくとも生きた人間ではない。どこかの国の昔話では、もし人外の世界に迷い込んでしまっても、決してそこの食物を口にしてはいけないという。そこの食物を口にすることは、その世界の住人になるのと同じことだという。
そこまで思い出して、少女ははっとした。自分は、紳士の館で紅茶と焼き菓子を口に入れてしまったのだと。古い御伽噺を鵜呑みにするわけではないが、もしもこの深い森から出ることが叶わなかったらどうしようという気持ちが、先刻よりも大きくなっている。
自分の鼓動が早くなっているのがわかる。歩みは止めないが、不安のためか自然と俯きがちになっていた。脳裏に「家族」の姿がよぎる。中でも年のちかい下の兄の姿が鮮明に思い出された。頭に血が上ってしまったのだろうか、その人の声が聞こえるような気さえしてきた。
かごめ、と自分の名前が呼ばれた。幻聴とするには現実感のありすぎる声が耳に染んだ。
驚いて顔を上げると、人気のほとんどない見慣れた裏通りの古びた電灯の白い灯りの下に男がいた。
コンクリートの道に、ところどころ欠けた年季の入ったブロック塀、はがされた張り紙の跡の残る電柱、人々の浮ついた声が遠いところから聞こえてくる。空を仰ぐと、月が遠いところで小さく弱々しい光を纏っており、鳥籠の中はいつに間にか空になっていた。近隣の民家からは白米の炊ける匂いや、風呂の湯の良い香りが漂ってくる。慣れた、自宅への帰り道だった。
つい先ほどまで歩いていたはずの鬱蒼とした森の気配などは微塵も感じられない、生活感に溢れた日常の風景だったが、唯一かごめのむき出しの足には湿った土が不自然に付着していた。
紳士のもとから帰るときはいつもこうだったと、かごめは唐突に思い出した。深い森をあてもなく歩いているかと思えば、いつのまにか見慣れた路地を確かな足取りで自宅へと向かっているのだ。そして、何かとてつもない不安に駆られていたような気がするのだがその記憶が曖昧になっていくことに気づかなかった。
電灯に背を預けていた薄藍色をした頭の男とかごめの視線が合った。
「…六…さん。」
絞り出すようにして出たか細い声が届いたかどうかはわからないが、それを合図にしたかのように六がかごめに近づいた。
六に上から見下ろされるような状態になり、居た堪れなくなったかごめは俯いたまま顔を上げることができなくなっていた。最悪、怒鳴られるかもしれないと思った。今まで、六が出掛けたかごめを迎えにくるということはあまりなかった。しかし、今日は何故か六が迎えに来ている。上の兄姉たちに言われ嫌々来たのだとしたらきっと不機嫌に違いない。
六の性格からして、かごめに手を上げることは無いだろうが、かごめに対して良い感情を抱かないだろう。目の前の兄に嫌な思いをさせているというだけでも、かごめにとって身の千切れるような思いだというのに、そのことに対して何の言葉も出ない自分が更に歯がゆかった。
俯き、一人悶々とするかごめを見下ろしながら六は溜息をついた。兄姉に嗾けられたとはいえ、いつもより帰りの遅い妹を無事見つけられたことは喜ばしいことだった。しかし、当の妹といえば遠目に視線が合ったかと思えば俯き、一言も喋ろうとはしなかった。自分はかごめにとって好意的な存在ではないのだろうかと思ってしまう。
実際、この新しい家族は兄と姉にはすぐに馴染んだが自分にだけは、なかなか懐かなかった。今だってこんな調子だ。無事に見つけたのだからこのまま無理にでも連れ帰れば良いのだろうが、何というか、六がかごめの手をとり、引き摺るようにして連れ帰る様を想像すると、まるで人攫いのように見えなくもない。
いや、たとえ声を掛けられるようなことがあったとしても、兄妹だと答えれば良いだけのことだ。しかし、六はかごめと自分の関係を兄妹だと意識する際に心のどこかで何か思うところがあるような気がしてならなかった。その上それが否定的な感情なのか、それとも肯定的な感情なのか六自身にも判断できないでいた。ただ、自分の内に正体のわからない何かが存在するという苛立ちを、その元凶とまではいえなくとも、少なからず原因となっているであろうかごめに、無意識のうちにぶつけてしまっているかもしれないと思うと己の未熟さに涙が出そうになる。無論、男子たるもの、そして侍たるもの、そう易々と涙を流すわけにはいかず、また一つ溜息を零すだけにしていた。
その溜息一つがかごめを更に居た堪れない気持ちにさせていることに六は全く気付いていない。
このままずっと、二人立ち尽くしている訳にはいかず、内心複雑な思いのまま、しかし表情は憮然としたまま、六はかごめの手を引こうとした。
そこで六は初めてかごめが裸足で、しかも泥まみれの足をしていることに気付いた。日が落ちれば、たとえ日中は問題がなくとも自然と気温は下がるだろう。かごめが常々裸足を好んでいたことは知っていたが、まさか季候も考えずに素足で歩き回っているとは思ってもみなかった。ただでさえ薄着なのだ、寒いと感じないのだろうか。
少しの間考えた六は、伸ばした手を戻しその場にしゃがみ込むと、かごめの足の付け根に腕を回し抱き上げた。
あまりのことにかごめの頭が思考を停止した。が、抱き上げられたために不安定になった体が反射的に両腕を六の頭部にしがみつかせた。
嫌がって暴れだすのではないかと踏んでいた六は、まるで蝋人形か何かになってしまったのではないかと思えるほどにぴくりともしないかごめに声をかけた。
「履物も履いていないし、これ以上足を汚すのも良くないと思ったんだが、嫌だったか。」
六の問いかけに対して、何秒かの時差の後に音が出そうなほど力いっぱい首を横に振るかごめを見て、六はまた自分の心に何かを感じた。やはり正体のわからない何かが自分の内に存在するだけだったが、不思議と苛立ちは沸いてこなかった。
家路に着きながら、やっとのことで緊張状態から開放されたかごめが、困った顔で六の頭にしっかりと絡められた両腕の行き場を探していたが、しっかり掴まっていないと落ちるぞ、という六の言葉に何度か逡巡した後、結局素直に従った。
自宅の玄関では、かごめには兄と姉による熱烈な、半日ぶりの感動の家族の再会の光景が繰り広げられ、六には迎えの能率に対する駄目出しが行われた。
夕食までの時間、六は縁側にかごめを座らせると自分はぬるま湯の入った桶と、真新しい布を持ち、泥まみれになった足を丁寧に拭いていた。時折台所で兄と姉が笑いあう声が聞こえる。六とかごめは言葉を交わすことなく、一人は汚れの落ちた濡れた白い足を、もう一人は夜の闇の中、時折生活灯に照らされる薄藍色の頭をじっと見つめていた。
最後走りすぎた。
2006.11.28