上体を反らすような形で宙を舞ったカジカは、自分の目に映った丸い月を見て「カスタードクリーム系のお菓子が食べたいな」と思うと同時に地面に叩きつけられた。
 柔らかい地面のおかげで打ち付けられた背中はあまり痛まなかったが、強烈なアッパーカットを食らった顎はじくじくと痛み、だらしなく開かれた口端からはつう、と赤いものの混じった唾液が流れ、口内には鉄に似た味が広がった。
カジカは脳からの指令が上手くいかない体に鞭打って上体を起こすと、今しがた自分を殴りつけたロキに目をやった。ロキは常にへの字になっている口をさらに曲げ、吐き棄てるように言った。
「貴様、私を馬鹿にしているのか」
 いったい何のことだろう。
「それとも、己の口から出た言葉すら記憶に留めておけないのか。大した足らず頭だな!」
ハンッ、と自嘲気味に鼻を鳴らすロキの手には、今にも怒りによって握り潰され砕けてしまうのではないかと心配になるほど強く握られたバスケットがひとつ。
「その不快な面で私の前に現れるな!永遠にだ!」
空気を震わせ般若のような形相で怒鳴りつけたロキは踵を返す瞬間、持っていたバスケットをカジカの顔面に投げつけた。
 人より少々ドンくさいカジカがそれを回避できるはずもなく、見事、顔面でのキャッチをはたした。
音を立てて顔にめり込んだそれが重力によって地に落ち、カジカの視界が開けた時にはロキの姿はなかった。

 自分が何をしたのだろうか、とロキの言うところの「足らず頭」で考えたカジカだが、心当たりは無かった。もっとも、沸点の低いロキのことだ、カジカでは何とも思わないようなポイントでプッツンしている可能性も高い。
ここは矢張り、相手の怒りが収まるまで距離をとるのが一番だろうか。
 と、ロキに投げつけられたバスケットを抱えながらカジカは考えた。とりあえず、いつまでも森の中に座り込んでいるわけにもいかないので、歩いてはいるもののアテなどはない。というか、カジカが確固たる目的地をもって歩みを進めたことなど数えるほどしかないのだが。
 そんなことよりも、今、カジカの全神経は腕の中のバスケットに集中していた。なんともいえない、甘く、おいしそうな匂いがそこから漂ってくるからだ。それに加えてカジカは現在、大変空腹だ。
少々後ろめたい気持ちはあったが、バスケットのなかを覗いてみるとそこにはぐちゃぐちゃになった(多分ロキが投げつけた際の衝撃によるものだろう)「哀れな何かのなれのはて」が入っていた。
キャベツを思い起こさせる薄い形の皮と、それに包まれていたであろう黄色っぽいクリーム。「かつてシュークリームであったもの」…なのだろうか。
まじまじとそれを見つめていたカジカは、中でもまだ比較的原型をとどめているものを、ためらうことなく口に入れた。
おいしい。
ちゃんとシュークリームの味がする。そういえばついさっき、カスタードクリーム系のものを食べたいと思ったような気がする。いや、そういうことじゃなくて。なんでロキはこんなものを持っていたのだろうか。一人で食べるには少々量が多くはないだろうか。
カジカは暫し考える。
もしかして、いや、まさかロキに限って、でも、万が一、ちょっぴり自惚れて考えたとして、これはロキが自分のために作ってくれたと思っていいのだろうか。…だとしたら、これは、ちょっと、ものすごく、うれしい。
たった一口で今までの空腹とアゴの痛みを忘れてしまうくらい、カジカの胸はなんとも形容しがたいあたたかいもので満たされた。
ロキに会おう。
会ってどうするかなどは全く考えてはいないが、とにかくロキに会いたいと思った。
とりあえず、ロキの住処の方向へ、と踵を返したその先に、なんという偶然だろう!ロキその人がいた。
大きな籠を脇に抱えて、どうやら薬草かなにかを探しているようだった。その表情にはつい先刻カジカを怒鳴りつけた激しさはない。
「ロキ」
 大きめの声で名前を呼べば、相手はカジカを認識したらしく、穏やかな顔でゆっくりと近付いて来る。やはり、その表情にも憤りのようなものは見受けられなかった。カジカはそんなロキに普段より少し興奮気味に話しかけた。
「月の色がカスタードクリームみたいに見えて口の中に涎が溢れたんだけどやっぱり甘いものっていいよね」
 カジカの中で伝えたい言葉がまるで湧き出る水のようなのだが、それを湧き出るままぶつけられるロキはたまったものではない。
「月自体はチーズってかんじだけど月の光となるとカスタードだよね。それにしたってシュークリームはおいしかった」
 豆鉄砲を食らったハトの表情をしていたロキは、はっと我に返ると眉間にシワを寄せてカジカの手の中のバスケットの中を覗き見た。
やはり、そこにはシュークリームだったものが哀れな姿となって広がっている。ナンマイダ。
 「……お前が食というものを重んじないということは知っているが、もう少し口に入れるものには頓着したらどうだ?」
「僕はいま、ものすごくうれしい気持ちでいっぱいだよ。甘いものはすきだけど今はそれが二乗されてるかんじだ」
「…ふむ。貴様はシュークリームが好きなのか…」
 それきり、ロキは黙り込んだ。カジカはそんなロキを気にすること無く、月の光とカスタードクリームの類似性を確認すべく大きく夜空を仰いだが、何か違和感を感じた。それが何なのか理解はできなかったが、視線を目の前にいたはずのロキに戻すと先ほどまでそこにいた彼女の姿は忽然と消えていた。
 おや、とカジカは首を傾げた。
 もう一度夜空に目をやり、うーんと唸ると、急に真顔になってぼそりとつぶやいた。
「シュークリームはおいしかった。ロキは料理が上手だ。謝りに行こう」
 そうして、とてもおいしかったと伝えよう。
そう言って、ロキの家とは正反対の方向へ自信有り気に歩むカジカの行く道を、ニヤニヤとからかう口の形に似た三日月が照らしたが、それもすぐに雲に隠れた。






ついにカジカが空間どころか時空を超えたけど本人含めて誰もそのことに気付いてないので今日も平和です
2006.11.28